引き寄せと量子論

【おすすめ本】愛するということ

おすすめ本 愛するということ

名著「愛するということ」を初めて読んだのは、もう20年近く前。
前夫との関係がうまくいかなくなり、悩んだ時に手に取りました。

あれから20年、改めて読んでみたら、本の素晴らしさを以前よりもずっと感じることができるようになっていました。

この本には、わたしが考える「愛する」ということの素晴らしさと難しさ、可能性と戒めや学びが詰まっています。

愛についての意識や視点が豊かなものになる本。
その中の”言葉”をいくつか紹介していきますね。

「愛する」ということは技術である

本の冒頭、「はじめに」の部分には、こうあります。

自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向を向くよう、全力をあげて努力しないかぎり、人を愛そうとしてもかならず失敗する。満足のゆくような愛を得るには、隣人を愛することができなければならないし、真の謙虚さ、勇気、信念、規律をそなえていなければならない。

<「愛するということ」 エーリッヒ・フロム著>

また”たいていの人は愛の問題を、愛するという問題、愛する能力の問題としてではなく、愛されるという問題として捉えている。””愛の問題とはすなわち対象の問題であって能力の問題ではない、という思いこみである。”と書かれています。

わたしもずっと「愛されたい」と願ってきました。
けれど、学び続けることで氣付いたことは、「愛される」よりも「愛する」ことが人間の本質であり、本能であり、才能であるということ。

KinKi Kidsの歌にもあるように、本来人間は「愛されるよりも、愛したい真剣(マジ)で」な生き物なのです。

愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。

<「愛するということ」 P42 エーリッヒ・フロム著>

本来の「愛する」ということを「愛される」ことに価値を置くと苦しいのは、愛は与えるものだからなのです。

また、

物質の世界では、与えるということはその人が裕福だということである。たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ。

<「愛するということ」 P45 エーリッヒ・フロム著>

とあります。
”与えることはもらうより喜ばしい。”もの。
「愛される」よりも、「愛する」ことの方がより喜びが感じられるものなのです。

とはいえ、わたしのセッションにお越しいただく方は「愛されたい」という方が多いのも事実。
そこでわたしはいつも、「愛されたいのなら、まずは自分を愛し大切にしましょう」とお伝えします。
それがなぜかについても、この本にこう書かれています。

他人に関する知にはたくさんの層がある。愛の一側面としての知は、表面的なものではなく、核心にまで届くものである。自分自身にたいする関心を超越して、相手の立場にたってその人を見ることができた時にはじめて、その人を知ることができる。そうすれば、たとえば、相手が怒りを外にあらわしていなくとも、その人が怒っているのがわかる。だが、もっと深くその人を知れば、その人が不安にかられているとか、心配しているとか、孤独だとか、罪悪感にさいなまれているということがわかる。そうすれば、彼の怒りがもっと深いところにある何かのあらわれだということがわかり、彼のことを、怒っている人としてでなく、不安にかられ、狼狽している人、つまり苦しんでいる人として見ることができるようになる。

<「愛するということ」 P52 エーリッヒ・フロム著>

愛するということは、相手を深く知ること。
そのためには、自分への関心を超越していることが必要なのです。

親子の愛について

この本には、男女の愛だけが書かれているわけではありません。
愛の対象として、「兄弟愛」「母性愛」「異性愛」「自己愛」「神への愛」について書かれています。

その中でも、親子の愛や母性愛についても、学びが多いです。
本を読むと、子育てに対する考え方も変わると思います。
例えば「母性愛」について。

母性愛の本質は子どもの成長を気づかうことであり、これはつまり子どもが自分から離れてゆくのを望むということである。ここに異性愛との根本的なちがいがある。異性愛では、離れ離れだった二人が一つになる。母性愛では、一体だった二人が離れ離れになる。母親は子どもの巣立ちを耐え忍ぶだけでなく、それを望み、後押ししなければならない。
この段階にいたってはじめて、母性愛はたいへんな難行となる。つまり、徹底した利己主義、すなわちすべてを与え、愛する者の幸福以外何も望まない能力が必要になる。

<「愛するということ」 P84 エーリッヒ・フロム著>

同時に、大人になってからの”愛の問題”が、子どもの頃の満たされない思いに起因することもよくわかります。

愛されることによって何かをもらうというのは、何かに依存することである。まさにそのために、自分は小さく、無力で、病気でなければならない。いまや、子どもはそうした状態を乗り越え、愛することを通じて、愛を生み出す能力を自分のなかに感じる。幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。未成熟の愛は「あなたが必要だから、あなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」と言う。

<「愛するということ」 `P68 エーリッヒ・フロム著>

異性愛について

異性愛について、「愛される」ことに価値を置くと「愛する」ということの本質を見落としたり、見当違いになってします。

結果、愛されないということに悩み、愛されない現実が引き寄せられ続けてしまうのです。

異性愛に置ける「愛するということ」について、こちらの言葉を紹介します。

より深く相手を知ることができれば、つまり相手の人格の無限性を知ることができれば、他人がそんなに身近になるはずがない。相手の人格の無限性を知れば、壁を乗り越えるという奇跡は毎日新たに起こるかもしれない。だが、たいていの場合、自分自身も他人も、すでに探検しつくし、知りつくしてしまう。そういう人の場合、親密さは主に肉体関係から得られる。そういう人にとっては、人間がたがいに孤立していることは、肉体的に離れているという意味にすぎないので、肉体的に統合することによって孤立を克服しようとするのである。

<「愛するということ」 P86 エーリッヒ・フロム著>

相手の言動に振り回される人ほど、自分のことを見ようとしません。
だから、自分の無限性にも相手の無限性にも氣付けないのです。

そうやって日々を過ごしていると、毎日の中の奇跡のような瞬間や出来事を「当たり前」だと見過ごしてしまうのですね。

たいていの人は性欲を愛と結びつけて考えているので、二人の人間が肉体的に求めあう時は愛しあっているのだと誤解している。

<「愛するということ」 P88 エーリッヒ・フロム著>

愛について学ぶほど、愛と性、そしてエロスの違いに敏感になります。
同時に、性欲と愛を同義だと考えているから生まれる苦悩から自由になれます。

自己愛について

自己愛、と聞くと”利己主義的”なイメージをされるかもしれません。
実際は、”利己主義と自己愛とは、同じどころか、まったく正反対である”と本には書かれています。

わたし自身、自己愛がない人は他人を愛することができない人だと考えています。
以前のわたしは自己愛のない、こんな人間でした。

「非利己的な」人は「自分のために何も欲しがらず」、「他人のためだけに生き」、自分自身を重要視していないことを誇りにしている。ところが、非利己的であるにもかかわらず幸福になれず、また、ごく親しい人びととの関係にも満足できないので、当惑している。

<「愛するということ」 P98 エーリッヒ・フロム著>

そんなわたしが、自己愛をもち、他人を心から愛することができるようになったのは、愛する技術を学んだからです。

自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち気づかい・尊重・責任・理解(知)に根ざしている。もしある人が生産的に愛することができるとしたら、その人はその人自身をも愛している。もし他人しか愛せないとしたら、その人はまったく愛することができないのである。

<「愛するということ」 P96 エーリッヒ・フロム著>

本には、自己愛の思想をみごとに要約している言葉として、キリスト教神学者、マイスター・エックハルトの言葉を紹介しています。

「もし自分自身を愛するならば、すべての人間を自分と同じように愛している。他人を自分自身よりも愛さないならば、本当の意味で自分自身を愛することはできない。自分を含め、あらゆる人を等しく愛するならば、彼らを一人の人として愛しているのであり、その人は神であると同意に人間でもある。したがって、自分を愛し、同時に他のすべての人を等しく愛する人は、偉大で、正しい。」

<「愛するということ」 P96 エーリッヒ・フロム著>

愛と現代西洋社会におけるその崩壊

本の後半には、現代社会でいかに「愛する」ことが難しいことであるかについても書かれています。

その章の中でわたしが、子育てについて戒めとして受け取った言葉を書きますね。

自分の人生に意味を見出せない人は、そのかわりに子どもの人生に意味を見出そうとする。しかし、それでは自分の人生にも失敗するし、それだけでなく、子どもにも誤った人生を送らせることになる。なぜ自分の人生に失敗するかと言えば、それは、いかに生きるかという問題は、本人よってしか解決できず、身がわりを使うわけにはゆかないからだ。どうして子どもにも誤った人生を送らせることになるかといえば、そういう人は、子どもが自分で答えを見出そうとしたときに導いてやれるだけの資質にかけるからだ。

<「愛するということ」 P152 エーリッヒ・フロム著>

わたし自身、子どもを愛することに対しての姿勢だけは崩さぬように心掛けています。
子育ては、やり直しがききません。
そして、子どもは確実に親のやり方をみて、よくも悪くも学びます。

自分が親としてできることは、子の年齢によって変わっていきますが、根本的な姿勢だけは変わらず、今の自分にできる最大限のものを伝えていきたいと考えています。

「愛する技術」の習練

本の最後の章では、愛の習練について書かれています。

愛の習練に必要なもの

1、規律
2、集中
3、忍耐
4、最高の関心

この中の、「2、集中」について、”集中するとは、いまここで、全身で現在を生きることである。”とあります。

これは、量子論的思考とまったく同じもの。
常に自分自身にも他人にも、意識を集中させることの大切について、本にも書かれています。

わたしがセッションでお伝えしていることと同じようなことが書かれているので、紹介しますね。

人は自分自身にたいして敏感になることができる。たとえば、疲れを感じたり、気分が滅入ったりしたら、それに屈したり、つい陥りがちな後ろ向きの考えにとらわれてそうした気分を助長したりしないで、「何が起きたんだろう」と自問するのだ。どうして私は気分が滅入るのだろうか、と。同じように、なんとなくいらいらしたり、腹が立ったり、また白昼夢にふけるとか、その他の逃避的な活動にふけったりしたときも、それに気づいたら、自問するのだ。

<「愛するということ」 P173 エーリッヒ・フロム著>

愛することについて、わたしが常に心掛けていることが本にも書いてあります。

人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているのである。
愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しか持っていない人は、わずかしか愛することができない。

<「愛するということ」 P190 エーリッヒ・フロム著>

愛されたいという自分自身の想いや渇望が、愛されることから自分を遠ざけてしまう。

その仕組みを知らなければ、人生を楽しむことは難しいのです。
なぜなら、”愛について語ることは、どんな人間のなかにもある究極の欲求、ほんものの欲求について語ることだからである。”とわたしは考えています。

愛することを学び続けるために、ぜひ、一度「愛するということ」を読まれてみてください。

また、セッションでも「愛される」ために、「愛する」ことをお伝えしています。
「愛されたい」を叶える最短の順路を一緒に創りましょう。

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